訪問連だよりvol.24 ??「わたしとガンジーは別人ですよそこ大丈夫ですか」
日々の業務お疲れ様です! さあー迅速に雑談開始ですよ!
先日視覚障がい者の方数名からお話を聞く機会がありました。
一人は先天性の弱視の方でしたが
「僕も友達もみんな電車のホームから落ちたことがありますよ」
というエピソードを聞いてびっくりしました。
通勤や用事で毎日ひとりで外出していれば、転落の一度や二度…という事でした。 明るい調子で話してくれましたが、大変なことには違いありません。
別の方は先天性の全盲の方でしたが
「公共交通機関が通っているところならたいてい一人で外出します。 ガイドヘルパーさんと行くのは通院かな。病院は体の弱った人が歩いているところだから、患者さんとぶつかって怪我させたりすることが心配なのでね」
ということで、なるほどなるほどのひと時を過ごしました。
さて。
この方々のように点字をすらすらと読み白杖を手にひとりで外出する様子は、世間がパッと思い浮かべる視覚障がい者の姿です。 なんとなくサングラスの若い男女(ときに盲導犬を連れている)のイメージですね。
ですが、全国31.5万の視覚障がい者(厚生労働省「平成23年生活のしづらさなどに関する調査」結果より)の中で点字の識字率はおよそ1割の3万人ほど。
そして視覚障がい者のうち3分の2は60歳以上です。
つまり、リアルな「視覚障がい多数派」は高齢・中途失明で視覚障がい者としての生活スキルの獲得が困難な人々なのです。
※そもそも「31.5万の視覚障がい者」という数字は障害者手帳の取得者のみの値で、日本眼科医会によれば視覚障がい者は全国で約164万人と言われていますが…
私がお話した方々は
「中途(失明)の人はねー、大変だよねー」 「まず見えてたものが見えなくなっちゃったことを受け入れるところからだものねー」
とおっしゃってました。
今まで視力頼みの暮らしをしていたのに…!
そこからの立ち上がりはどれだけの大変さかしら。
…その不自由な目で危険な船旅にのぞみ、外国へ行かなければならないとしたら?
なんでそんなことするの?
…それはね。仏の教えを広めるためー!!
ハイ! これから日本でトップクラスの有名中途失明者・鑑真(688-763)のお話をしまーす!
私は小学生のときガンジーと同じ人と思ってました!
どっちも昔のお坊さんっぽい! 徳の高い感ある!
でもその後社会科で勉強してぜんぜん違う時代の人と知りました。正しい知識!
中途失明者の鑑真さま。
その暮らしやその晩年についてのこと何かわからないかしら…?
と思いつつ、小学校社会の教科書っぽくその足跡を見てみます!
昔むかし。唐の揚州に生まれた鑑真は54歳の時は長安の都・大明寺の住職でした。 新たに僧尼になる人に、戒律を守りまーすと誓いの儀式(授戒)を執り行うことのできる高僧です。

〇唐の高僧・鑑真54歳(イメージ画像)
彼のもとに日本から栄叡と普照というふたりの僧がやってきます。
ふたりを遣わせたのは大仏で有名な聖武天皇。
当時の日本では、自分で自分に授戒して僧になっちゃうことが盛んで、しかも税逃れのためにカジュアル出家が流行中! (当時、僧は免税! 税金対策に宗教家になるわけです…)
イージー出家を防ぐことは国策でもあったわけです。
海の向こうにまことの仏の教えを請う人々がいる。 渡日したい者はいないか。
…しーん…
しゃーない! 私が行くわ!
ということを決心した鑑真は21人の弟子と共に日本への渡海を決意しました。

〇まことの仏の教えのため…!(イメージ画像)
行こう! 日本!

〇出航! (イメージ画像)
志したのはよいものの、日本行きに5回も失敗してしまう鑑真。このくだり有名ですよね。

〇漂流…(イメージ画像)船の裏に「2018よみうりランド」とあるのはナイショ
私は
「何回も何回も荒海に船を出してはどこかへ漂着する」
という図を勝手に思い描いていましたが、すみません違います。
渡海を嫌う弟子や、鑑真の渡日を惜しむ者によって妨害されて出航そのものがキャンセルになってしまったのですね。
日本僧のふたりは「アイツら海賊ですぜ」とウソ密告で港を追放されたり逮捕されたり散々です。
出航したけど暴風で戻ったことが一度、暴風で漂流し南方の島(海南島)に漂着したのが一度ですので5回漂流したわけではない。
漂流は2回だけ!
この海南島から揚州への帰路で栄叡が死去、これには鑑真もしょんぼり。
「泣き悲しんだ」とあります。
その上気候の違いや激しい疲労でついに失明してしまったのです。
鑑真63歳。まさにシニアになってからの中途失明です。

〇鑑真「いやもう無理」(イメージ画像)
けれども2年後、次の渡海のチャンスが来て鑑真行きます!
遣唐使の船に乗せてもらいました! 遣唐大使は反対したけど副使がこっそり載せてくれるという胸の熱くなる展開です!

〇今度こそ!(イメージ画像)
4隻の船は1隻が座礁、1隻については不明ですが…
鑑真の乗った第2船は現在の屋久島に到着!
そして天平勝宝6年2月4日(754年3月2日)奈良の朝廷に到着したのです。
鑑真65歳。現代の基準で高齢者の入口に立ってから、異国での仕事を始めるのです。
生活に不便はなかったのでしょうか?
彼は日本語が話せたのかな?
遣唐使といっしょに帰ってきたのですから、通訳の日本人が側に仕えたでしょうが…高名な学僧としての知性と旺盛なバイタリティで日本語もモリモリ習得したのでしょうか?
(のちに天皇に仏教の教えを授けていますが、通訳を介してなのかどうか不明です)
目が不自由になってからおよそ2年が経過していますが、生活の自立度はどの程度?
ケアが必要なら、それはどのようなものだったのでしょう…?
残念。
伝承にはその活躍はおさめられていますが、こまごまとした日常の生活やその自由不自由については見つけることができません。
栄光を語るための記録なので仕方ないのですが…
奈良時代に自身のリアルな老化と病態を克明につづった山上憶良はやっぱり異色中の異色
それでも『続日本紀』にてタフで博覧強記な姿と最期の様子は描かれています。
ザッと箇条書きですが。
・仏教の経典・注釈をたくさん暗誦していたため、当時誤字の多かった和製経典の字句の訂正に力を見せた
・天皇はいろいろな薬物について鑑真に真偽を見分けさせた。鑑真は薬をいちいち鼻で嗅いで識別しひとつも誤らなかった
※鑑真は学僧であると同時に薬学と彫刻に秀でた人でした。薬学については漂流した海南島の人々に薬学を授けた話も残っています

〇匂いで薬が識別できる鑑真(イメージ画像)
・皇太后の病気の時も鑑真の進上した医薬が効果をあげた
・自己の没日を悟っており死期が迫ると端座してやすらかに逝去した。時に77歳。
…最期の様子はちょっと盛りすぎ感もありますが、最期の時をつとめて平静に過ごしたという意味なのかな…ともとれます。
ともかく、アグレッシブな晩年だったようです。

〇日本の皆さんに教えを授けているところ(イメージ画像)
高僧で名医で漂流チャンピオンのお坊様!
それでも日本での日常生活はある程度の介助が欠かせないものだったでしょう。
介護記録、あれば良かったのになぁ。
どんなケアを受けて何を自立していったのか知りたいものです
というわけで今回は七転び八起きでどこからでも立ち上がる人のお話をお送りしました!
ではまたー!
今日の業務に行ってらっしゃい!

〇鑑真「ぜんぜんいけるいける」(イメージ画像)